賞を獲れなかった。朝誰からも連絡がない時点で嫌な予感がしていた。早くに現地に着いている先輩の先生にラインしたら掲示を見に行ってくれた。ありがたい。 結果は落選。しかも1/4で落ちるという結果。
発表は誰よりもはっきり声を大きく、これまでで一番良いものができたと感じていた。しかし評価はされなかった。
残念で、悔しい。自分の能力が劣っていたり、研究が良くなかった、とは解釈しない。 前日の飲み会では「もし獲れなかったたしても、見る目がない凡骨ども」と思うしかない、と自ら言ったのを思い出した。本当にそうである。賞なんてものは、審査員に評価されなかっただけの話である。
悔しさや辛さの向こうに、確かな怒りがある。評価をしない人達への怒りだ。 いままでなら打ちひしがれていたかもしれない。いつの間にか怒りを感じられるほど強くなったと感心する。 一方で危うさも感じる。自己中心的で、まるで筋違いなこと言っては認められず怒っている人もいる。 行き過ぎればそっち側になってしまう。
一方でやはり、昔の自分ならもっとくよくよとしていたと思う。「怒り」の扱い方がわかっていなかった。思い返せば怒っていいはずの場面で、それをせずに自らを痛めつけていた。 意図して「怒り」の使い方を獲得した。怒りに出して他人のせいにすれば、楽になれる。ただそれは楽な方法だ。
いろいろと書いたが、結局はボスのコメントの「賞は運です」に尽きるのだろう。結局、誰が悪いということもなく、粛々と結果を受け入れて、これまで通り進むべき方向に向かっていくしかないのである。
時間が立つとそんなこんなの感情も消えてしまうので、ここにその墓標を立てておく。